「攻めの人事」「戦略人事」「ビジネスパートナーとしての HR」――いずれも2010年代以降、日本の経営誌で繰り返し見出しを飾ってきたフレーズである。にもかかわらず、日本企業の HR 機能はいまだに 労務管理・制度運用・コンプライアンス対応 という守りの領域に重心を置いたままだ。CHRO(最高人事責任者)というポジションを設けた企業は確実に増えたが、その役割定義は依然として曖昧で、CFO や COO に比べて経営会議での発言量が少ない、というのが現場の実感である。
経営は「攻めの人材戦略」を求めている。事業の非連続な転換、AI が業務の半分を担い始めた時代の人材構造の再設計、リスキリングの大規模投資、海外人材市場へのアクセス――これらはすべて HR の射程に入る。とりわけ AI を「人を代替するもの」ではなく「人の判断を拡張し、人が指揮するもの」と捉えるならば、AI 時代の HR は「誰がどの判断を握るか」を設計する役割に拡張される。にもかかわらず、HR 側からの提案は、たいてい「制度設計」「研修体系」「人事評価の見直し」に収束する。経営の期待と HR の提案の間に、構造的なギャップが残っている。
なぜか。私が提案したいのは、根本フレームの取り替え である。HR を「事業を支援する機能」ではなく、「事業のリスクを引き受け、新しい人材市場を創るプロアクティブな機能」 として再定義する。これは経済学者 Mariana Mazzucato が国家に求めた「起業家国家」論の、企業内部への翻訳である。
Mazzucato は2013年刊の The Entrepreneurial State で、市場と国家の二項対立を解体した[1]。iPhone を構成する主要技術――タッチスクリーン、GPS、インターネット、Siri――のすべてが、米国政府の DARPA・NIH・NSF などの公的研究資金から生まれたという史実を提示し、「国家は市場の失敗を補正する存在」という新古典派の通説を真正面から否定した。国家自身が、リスクを取り、リスクマネーを提供し、需要を作り、インフラを整備し、官民連携で公共人材を育てる戦略主体である――これが Mazzucato の核心命題だった。
ジャーナリストの船橋洋一は近著『戦後敗戦』(2026)でこの概念を日本固有の文脈に拡張している[2]。1992年から2001年までの10年間、日本の半導体産業政策はほぼゼロに近い水準まで縮退し、政府と企業が「没交渉」だった。経産省自身が後年の自己総括で挙げた敗因は、(1)参加企業を絞り込めない、(2)投資規模が小さすぎる、(3)顧客ニーズに結びつかない、というものだった。船橋はこれを「起業家国家の不在」と命名し、4つの作動条件を抽出している。戦略的対話・集中投資・ロードマップ駆動・責任関係の明確化 がそれである。
民間ではこの概念が、すでに実装されている事例がある。Anthropic が掲げる Race to the Top 戦略 と 80% Pledge は、企業が「安全な AI」という公共財に対して構造的にリスクマネーを投じる試みだ[3]。Palantir の Alex Karp が The Technological Republic(2025)で展開した「シリコンバレーは国家プロジェクトに帰還すべきだ」という議論も、同型の構造をもつ[4]。いずれも、民間企業が起業家国家的振る舞いを引き受ける 局面が、AI 時代に増えていることを示している。
ここまでくると、ひとつの問いが浮かぶ。企業内部の HR 機能こそ、起業家国家の最適な実装場所ではないか。
「人事は守りの機能だ」という通説には、歴史的な形成要因がある。20世紀の HR は、労務管理・福利厚生・労使関係を主領域として発展してきた。1980年代以降、戦略人事(SHRM:Strategic Human Resource Management)論が登場したが、Wright & McMahan(1992)のレビューが指摘したように、その実装は依然として「事業戦略の従属変数」としての位置づけにとどまった[5]。HR は「事業の要請に応える」機能であり、「事業を駆動する」機能ではない、というのが過去30年の主流だった。
しかし船橋『戦後敗戦』の起業家国家4条件は、HR にそのまま翻訳できる。
第一に 戦略的対話――HR と事業部の「課長と担当者が深夜まで議論する」レベルの相互理解が、いま日本企業の HR には欠けている。多くの場合、HR は事業部のあとから「要件」を受け取る側に回っている。
第二に 集中投資――リスキリング、市場相場を超える採用、特別報酬。いずれも「全社で薄く広く」では効果が出ない。Mazzucato が国家に求めたように、少数の領域に大規模に投じる勇気 が HR にも求められる。
第三に ロードマップ駆動――「中計と整合させた人事計画」では遅い。事業の3年後の人材ポートフォリオを HR が逆算で設計し、現在の採用・配置・育成施策をそこから引き戻す動き方が必要だ。
第四に 責任関係の明確化――「人事は人を採るだけ」「事業は人を使うだけ」という曖昧な責任配分が、リスクを取らない人事を生む。人材投資の ROI を CHRO と事業 CFO が共同で背負う 設計が、構造的非連続を可能にする。
この4条件を意識的に実装すれば、HR は「攻め」の機能になる。これは気合や精神論ではなく、起業家国家フレームの実装である。
二層で実務に翻訳しよう。
CHRO 個人レベルでは、リスクマネーの意思決定 が業務に組み込まれる必要がある。たとえば、年俸が市場平均の2倍を超える戦略採用、5年単位のリスキリング投資、社内ベンチャー部隊への人材出向――いずれも「人事の管理範疇」を超える意思決定だが、起業家国家としての CHRO であれば、これらに対して 「やる/やらない」を経営の議題として提案する 主導権を持つ。
組織レベルでは、人材市場の不在を埋める 仕組みが鍵になる。Mazzucato の議論を借りるなら、起業家国家は「市場の失敗を埋める」だけでなく「まだ存在しない市場を創る」役割を担う。HR がこれを企業内部で実行するならば、社内人材市場(ジョブ・マーケット・プレイス)、社内ベンチャー、社外副業の積極推進、戦略子会社の設立――いずれも HR 主導で設計しうる。「採用するもの」から「創るもの」へ、人材市場の捉え方を反転させる。
これらを束ねる組織機構が、人的資本投資委員会 や 人材ファンド といった、CFO と CHRO が同等の権限で運営する意思決定体である。私の観察では、こうした機構が日本企業でも立ち上がり始めている。まだ少数派だが、確実に増えている。
AI 時代の起業家国家 CHRO には、もう一つの中核業務が加わる。「どの意思決定を AI に渡し、どの意思決定を人間が握るか」の境界設計 だ。AI が業務遂行を担うほど、不可逆な判断(Point of no return)――例えば人事評価の最終確定、市場相場を超える採用の決断、組織再編の意思決定――は人間が引き受けるべき領域に純化される [11]。AI を拡張として位置づけ、人間が指揮を握る分業設計を、HR 主導で経営の議題に上げる。これが、Wright & McMahan が1992年にレビューした SHRM 論が描けなかった CHRO 像である。
「攻めの HR」は気合や精神論ではない。Mazzucato の起業家国家論を、企業内部に翻訳する設計作業 である。
このシリーズを書き進めるなかで、CHRO という肩書が改めて重い役職であることを再認識している。労務管理の延長で CHRO を名乗ることもできるが、起業家国家としての CHRO は別の覚悟を要する。船橋『戦後敗戦』が示した4条件は、国家論として読まれることが多いが、私には 企業内 HR の進化道筋 として読めた。
書籍第2弾「プレイングマネージャーの処方箋」(2027年1月刊行予定)では、マネジャー個人にも同型の「攻め/守り」の選択がある、というテーマを扱う予定である。CHRO レベルの起業家国家論が、現場マネジャーの「チームの起業家国家」へ降りていく経路を描きたい。フィードバックを歓迎する。
[1] Mazzucato, M. (2013). The Entrepreneurial State: Debunking Public vs. Private Sector Myths. Anthem Press.
[2] 船橋洋一『戦後敗戦──「国民安全保障国家」と「起業家国家」の構築を』、2026.
[3] Anthropic (2024). Responsible Scaling Policy; St. John, C. (2026). The Scaling Curve.
[4] Karp, A., & Zamiska, N. (2025). The Technological Republic. Crown Currency.
[5] Wright, P. M., & McMahan, G. C. (1992). Theoretical perspectives for strategic human resource management. Journal of Management, 18(2), 295–320.
[6] 船橋洋一『地経学とは何か』文春新書、2020.
[7] Mazzucato, M. (2018). The Value of Everything: Making and Taking in the Global Economy. Allen Lane.
[8] Boudreau, J. W., & Ramstad, P. M. (2007). Beyond HR: The New Science of Human Capital. Harvard Business School Press.
[9] Bersin, J. (2024). HR's 2030 Agentic Vision. The Josh Bersin Company.
[10] Cappelli, P. (2015). Why we love to hate HR... and what HR can do about it. Harvard Business Review, 93(7/8), 54–61.
[11] Slides「AI 論を OS 設計論へ:人間と組織のアーキテクチャ」(友人作成資料、2026-04-28)/Point of no return 概念の出典。