前号「人材ポートフォリオの主語を、個人に取り戻す」(T-20260606-001)、前々号「『衰退途上国』のCHROへ──戦後敗戦が突きつける8つ目の問い」(T-20260516-001)と、地政学・経済安全保障の語彙を HR に持ち込む試みを続けてきた。今回はその延長線で、鈴木一人『地経学とは何か——経済が武器化する時代の戦略思考』(新潮選書、2025)を読んだ所感を補助線にしたい [1]。
鈴木の整理はシンプルである。地政学(geopolitics)は地理的条件で国家戦略を読む。地経学(geoeconomics)は、その地政学に「経済を武器化する手段」を掛け算する。足し算ではなく、かけ算である、と鈴木は繰り返し強調する。先端半導体の輸出規制、SWIFT からの切り離し、レアアース禁輸、シェール革命によるエネルギー外交の組み替え。経済が外交手段になる時代の戦略思考のフレームワークが「地経学」である。
私が考えたのは、この射程が HR にも届くのではないか、ということだ。「地理的配置で人材戦略を読む」(駐在ローテーション、海外赴任、グローバル拠点設計)が地政学的人事だとすれば、「経済の武器化と同じ構造で、人材を戦略資源として読み直す」のが地経学的人事である。鈴木のフレームは、企業の人材ポートフォリオにも、個人のキャリア設計にも、ほぼそのまま翻訳できる。
鈴木が立てる柱は3つ。地経学的パワー、戦略的自律性、戦略的不可欠性 である。
第一の 地経学的パワー は、天然資源だけでなく技術力・人材・企業経営力を含む経済的資源を、国際秩序への影響力に転換する力である。鈴木が出す典型例は台湾の「シリコンシールド」だ。TSMC の独占的な先端半導体製造能力が、台湾そのものの安全保障になっている [1]。技術と人材の集積が、地政学的脆弱性を補う「武器」になりうるという構造論である。HR の文脈に置けば、企業が持つ人材集積そのものが、買収防衛・規制対応・国際展開での交渉カードになる時代だ、と読める。米国 CFIUS が経済安保観点で USスチール買収を審査したのと同じ論理で、企業の重要人材の離職・移籍が安全保障案件として議論される時代が、すでに半導体・AI 領域では始まっている。
第二の 戦略的自律性 は、他国・他組織への依存度を減らし、経済的威圧に対する脆弱性を低減する概念である。鈴木が引く典型例は2010年の中国レアアース輸出停止だ。日本のレアアース対中依存度はこの一件を契機に90%から60%へと下がった [1]。サプライチェーン多元化、フレンドショアリングが世界中で進行している。HR に置き直すと、特定スキル・特定ベンダー・特定パートナーへの過度な依存をどう棚卸しするか、という問いになる。AI 開発を 1 社の LLM API に全乗りした組織が、価格改定や API 仕様変更で何を失うか。基幹システムを特定 SIer に完全委託した組織が、その SIer の人員流出でどれだけ脆弱になるか。人材ベンダー、AI ベンダー、外部委託先、業務委託契約──いずれもサプライチェーンの一種である。
第三の 戦略的不可欠性 は、グローバルサプライチェーンにおいて他に代替されない存在になることで、他国の攻撃を抑止する力である。鈴木は日本の炭素繊維、半導体素材(フッ化水素、フォトレジスト、フッ化ポリイミド)、製造装置を典型例に挙げる [1]。「自分が止まれば相手も止まる」という相互抑止構造を作る ことが、攻められない地位を確保する戦略になる。HR に翻訳すれば、企業の中で「この人がいないと事業が止まる」という代替不可能なノード人材を、意図的にどう作るかという問いである。同時に、個人の側でも、「自分は組織にとって戦略的に不可欠な何を持っているか」という問いに変わる。
ここで重要なのは、自律性と不可欠性は同時に最大化する必要がある、という鈴木の指摘だ。依存度だけ下げても、不可欠性がなければ相手にとってどうでもいい存在になる。不可欠性だけ高くても、自分の側が他に依存していれば人質と同じだ。HR でも同じ構造が成り立つ。
通説に3つの異論を置きたい。
第一に、「グローバル人材=海外駐在経験・語学力」という通説は地政学止まりである。鈴木の地経学の射程では、これは古いフレームに見える。戦略的に問うべきは「自社のサプライチェーンの中で、戦略的不可欠性をどこに作るか」「戦略的自律性をどこで取り戻すか」を構想・実装できる人材である。経産省『不公正貿易報告書』『通商白書』が並べる対外関係の論点と、自社の事業設計を接続できるかという問いだ。地理的に「海外にいた」ことよりも、経済の武器化が日常化した世界で事業設計を組み直せることの方が、はるかに希少なケイパビリティになっている。
第二に、「DX 人材不足は技術スキルの供給問題」という通説も、地経学的に読み直すと違う絵が見える。鈴木が論じる相互依存の罠は、技術スキルの市場にも作動している。米国の OpenAI、Anthropic、Google が AI 人材を集約し、日本企業はその二次・三次の API ユーザーに留まっている構造は、半導体産業が経験したサプライチェーン上の従属と同型である。船橋洋一が『戦後敗戦』第三章で論じた半導体敗戦の構造的失敗──「政府と企業の没交渉の10年」「オールジャパンの自閉性」「TSMC のような世界的プレーヤーと話さずダイハツを相手に自動車戦略を描いた」──と、いまの DX・AI 領域の議論には不気味な相似がある [2]。「技術スキルの不足」を技術スキルの問題として閉じる組み立てが、まず疑われるべき通説である。
第三に、鈴木が論じる「3つの相互依存の罠」は、人材市場にも作動している。第一の罠は「グローバル化の罠」──経済発展が民主化をもたらすという期待の裏切り。第二の罠は「政経分離の罠」──リーマンショック後の国家資本主義台頭。第三の罠は「政経融合の罠」──2010年のレアアース禁輸からトランプ政権第1期で完成した、経済の武器化 [1]。HR に置けば、第一の罠は「グローバル人材市場の流動性が組織のレジリエンスを下げる現象」、第二の罠は「ジョブ型・スキルベースが組織と個人の関係性を希薄化する副作用」、第三の罠は「AI と人材データが武器化される将来」として、ほぼ同じ構造で読める。「相互依存が平和をもたらす」という前提は、人材市場でも常に揺らいでいる、というのが鈴木のフレームから得られる読み筋である。
鈴木が紹介する 「スモールヤード・ハイフェンス」 は、バイデン政権の元国家安全保障担当補佐官ジェイク・サリバンが提唱した政策概念である [1]。経済安全保障上の戦略的物資だけを「小さな庭」に収め、そこを「高いフェンス」で守り、それ以外は自由貿易を維持する。すべてを管理対象にすると経済活動が窒息するから、「何を絶対に守るか」を絞り込み、それ以外は開放する、という設計思想である。鈴木は同時に、米国自身がトランプ政権第1期以降「ラージヤード」化しつつあるという皮肉も丁寧に描く [1]。
組織側に翻訳すれば、「自社にとってのスモールヤードはどこか」という問いになる。すべての人材を抱え込み、すべての業務を内製し、すべてのスキルを社内で完結させるのは、ラージヤード戦略である。コストもガバナンス負荷も上がり、機動力が落ちる。戦略的不可欠性を持つべき核(コア人材・コア技術・コア事業)を絞り込み、そこにフェンスを高く立て、それ以外はオープンに調達する設計が、地経学的な人材戦略になる。前号で論じた4層の人材ポートフォリオ(Orchestrator / Specialist / Collaborator / Domain-Native)のうち、どの層が自社のスモールヤードかは、業種・事業フェーズによって異なる。AI ネイティブ企業のスモールヤードと、製造業大手のそれは違う。Mercari と Sansan が2026年6月に CHRO と CAIO を統合した動きは、AI ネイティブ側のスモールヤード再定義として読める [3]。
個人側に翻訳すると、別の問いが立つ。「私のスモールヤードは何か」── つまり、絶対に AI にも他人にも譲らない、戦略的不可欠性を持つ領域はどこか。前号で論じた Domain-Native 層(違和感の感度、関係性、文脈の手触り)は、個人版スモールヤードの中核になる。同時に、戦略的自律性の側面でも問う。特定の組織、特定のクライアント、特定のツールへの依存度が高すぎないか。鈴木が言う「依存度90%から60%への低減」は、個人キャリアにもそのままあてはまる構造論である。経済産業省『令和7年版通商白書』が国家レベルのサプライチェーン多元化を論じる横で [4]、個人もキャリアのサプライチェーン多元化を構想すべき時代になっている。
ここから具体に降ろす。
個人 には2つ。第一に、自分の戦略的不可欠性を1行で言語化する。「私はこの組織で〇〇を止められる人物だ」「私はこの領域で代替不能な〇〇を持っている」と書けるか。書けないなら、それは Domain-Native 層が痩せているサインである。第二に、自分の戦略的自律性を棚卸しする。年間収入の何割が単一クライアント・単一組織に依存しているか。スキルの何割が単一ベンダーのプロダクトに紐づいているか。鈴木が言う「90%依存は警戒水域」を、個人版にも適用する。
マネジャー には1つ。チームの「ノード人材」を地経学的に守る。誰がいなくなると業務が止まるかを棚卸しし、その人物の代替育成と、本人の戦略的不可欠性のさらなる強化を、同時に設計する。代替育成だけだとノード人材の不可欠性が下がり、放置だとチームの自律性が下がる。両方を同時に動かすのが、地経学的マネジメントである。
HR には1つ。人材ポートフォリオの可視化に「依存度マップ」を入れる。経済安全保障の文脈で経産省が掲げる重要物資の依存度マップと同じ発想を、人材・スキル・外部委託で作る。社内の重要スキルが特定の数人に集中していないか、特定の外部パートナーへの委託比率が異常に高くないか、AI 関連の業務委託が単一の SIer にロックインされていないか。人材版のレアアース脆弱性を、平時に可視化する仕組みである。
経営 には1つ。「自社のスモールヤードはどこか」を経営会議の議題にする。すべてを守ろうとするラージヤード戦略は、戦略的不可欠性も自律性も同時に低下させる。守るべき核を絞り込み、そこにフェンスを高く立てる意思決定を、経営アジェンダに上げる。経産省『通商白書』や内閣府『経済安全保障推進法』の枠組みは、企業の経営戦略にも、人材戦略にも、直接の補助線になる [4][5]。
鈴木は本書の終盤で、「日本が地経学的に生きる道は、ルールに従う国からルールを作る国へ転換することだ」と書く [1]。CPTPP の「ペンホルダー」として、戦略的自律性と戦略的不可欠性の同時設計を、国家戦略の中核に据える。「ルール従う側から、ルールを作る側へ」、という宣言である。
私はこの宣言が、企業の人材戦略にも、個人のキャリア設計にも、そのまま投げかけられていると考えている。組織の側に問えば、「自社の人材戦略は、戦略的不可欠性と自律性を同時に最大化する設計になっているか」。個人の側に問えば、「私のキャリアは、戦略的不可欠性と自律性を同時に高める設計になっているか」。地政学的人事から、地経学的人事へ。転換は、もう始まっている。
鈴木一人さんの本は、地経学研究所の所長として、船橋洋一さんが創設した API(アジア・パシフィック・イニシアティブ)の系譜上にある一冊だ。船橋『戦後敗戦』を読んだとき、HR の戦後敗戦を「8つ目」として書いた。鈴木『地経学とは何か』を読んで、その「8つ目」の処方箋を補強する補助線が手に入ったように感じている。
2027年4月予定の書籍では、AI と人の関係を長い射程で扱う予定だが、地経学・経済安全保障のフレームを「組織と個人の中の不可欠性と自律性」に翻訳する射程も、書籍の柱の1つに据えたいと考えている。読者の方で「自分の組織のスモールヤードはここだと思う」「私のキャリアの戦略的不可欠性はこう設計している」といった事例・違和感をお持ちでしたら、コメントで教えていただけると嬉しい。
[1] 鈴木一人『地経学とは何か——経済が武器化する時代の戦略思考』新潮選書、2025年
[2] 船橋洋一『戦後敗戦』2026年
[3] 株式会社メルカリ・株式会社Sansan、2026年6月1日付プレスリリース(CHRO 兼 CAIO 統合)
[4] 経済産業省『令和7年版通商白書』2025年
[5] 内閣府『経済安全保障推進法』運用指針、2024年改訂版
(thesis-reviewer が記入)
(古い iteration を新しい順に details ブロックで保存)